2006年2月17日 午前9時ごろ、滋賀県長浜市の水田の市道にて、幼稚園児の男児、女児の二人が何者かによって、激しく何度も斬りつけられ殺害された事件。

概要

2006年2月17日 午前9時ごろ、滋賀県長浜市の水田の側道にて、幼稚園児の男児、女児の二人が血塗れになって倒れているところを発見。

女児は既に亡くなっており、男児は搬送先の病院で死亡が確認。二人の遺体には数十か所にわたる刺し傷が見つかったことから、殺人事件と断定。

すぐに滋賀県全域に緊急配備がひかれた。

その後、11時に滋賀県大津市をはしる、湖西道路の真野インターチェンジ付近で検問していたところ、1台の不審車両をひきとめたところ、

車内が血塗れになっており、さらに車内で血のついた包丁が発見された。

運転していた無職鄭永善(日本名・谷口充恵)容疑者(当時34)に事情を聞いたところ、二人の殺害を自供、その場で緊急逮捕となった。その際、車内には容疑者の長女も同乗していた。

『自分の子供が幼稚園で虐められていると思った』ことから殺害を決意したと話ている。

事件前

鄭容疑者は中国東北地方出身であり、1998年に結婚仲介業者を通し、中国上海にて滋賀県長浜市に住んでいた男性とお見合いを行い、その後1999年に結婚を機に日本へ移住。

2000年には長女を出産し、日本語の上達も早く日本で生活するには支障のないレベルになっていた。

しかし、長女出産後に精神が不安定になることが多くなり周囲でトラブルを起こすようになる。また精神科に通っていたことも判明している。

2003年   自宅のある賃貸アパートでボヤ騒ぎ

その後精神科に通院(2005年頃まで)

2004年 3月 長浜市に建てた新築一軒家へ転居

2004年 4月 鄭容疑者の長女、幼稚園に入園

その後、長浜市内の病院に入院

退院後、義母の首を締める騒動をおこしている

また今回被害にあった児童と容疑者の長女は同じ幼稚園(神照幼稚園)に通っていた容疑者の自宅幼稚園までは1.5キロほど離れていた為、当初は夫や義父が自転車などで送っていたが、幼稚園の方針で集団登園をすることになった。

その集団登園する班として
・容疑者の長女
・被害にあった男児
・被害にあった女児
・もう一名の園児

の4人となり、保護者が交代で送迎をしていた。

そして事件の当日の送迎当番は鄭容疑者であった。

事件発生

2006年2月17日、集団登園の送迎当番であった鄭容疑者は、自宅から長女を乗せ出発し被害になった男児、女児と合流。(もう一人の児童はたまたま休みをとっていた。)

容疑者の車に乗り込みまもなく、相模町の農道に車を止め、自宅から持ってきた包丁(刃渡り20センチ)を持ち、次々と襲った。

まず、車外から女児の座っていた後部座席の扉をあけ、心臓を貫通するほどの傷を負わせた。そのことが原因で死亡。

さらに、瀕死の女児を車から引っ張り出し、続いて男児を襲った。

男児はすぐに逃げ出したが、容疑者かしつこく追いかけ襲った(その為、背中に傷が集中していた)。

最後は瀕死になっていた男児を用水路に投げ込んだとされている。

その後、長女を乗せたまま現場から逃走。

午前 9時ごろ

近隣の住人が2人の児童が倒れているのを発見、119番通報を行う。

救急隊が駆けつけた時点で、女児はすでに死亡。男児については瀕死であったが、その後運ばれた長浜赤十字病院で死亡が確認。

また二人に数十ヶ所に及ぶ傷があった為、すぐに警察へ連絡がはいり、滋賀県警は即時に緊急配備を敷いた。

午前11時ごろ

滋賀県大津市真野インターチェンジ付近で検問をしていたところ、1台の不審車両がひっかかる。

車両の中をみると、座席、床などが血の海となっており、運転をしていた鄭容疑者から事情をきいたところ、

2名の殺害を認める話をしたことで、緊急逮捕となった。

午後2時

滋賀県警が事件の経緯、被害者の状況、犯人逮捕について記者会見を行う

事件後

捕まった当初は放心状態であった鄭容疑者だが、その後「自分の娘が、他の園児にいじめられている」といった思いから殺害を計画、実行したと供述。
犯行時は、休みだった園児についても、一緒に殺害するつもりだったことも認めている。

しかし、幼稚園や周辺での情報では、容疑者の長女が虐められていた事実は確認が出来なかった為、容疑者本人の妄想であったのではないかと考えられた。

その後、鄭容疑者は「日本人の子どもに負けたくなかった」と 供述。

日本に馴染めていないと感じていた鄭容疑者は、周りの子供たちが習い事を始めたりすることで余計に、自分に焦りを感じ精神的に追い詰められていった。

またそのことで、自分の娘も同じ思いをしているのでないか?周りの子供達にいじめられているのではないか?と自分と同じ状況だと思いこむようになり元々、精神的に不安定なことと重なり、ついに精神が崩壊し、犯行に及んだとかんがえられている。

裁判

2006/3/10
鄭永善(日本名・谷口充恵)容疑者を殺人罪などで起訴

2006/4/28

大津署では被告を留置場に入れようとした巡査(25)に掴みかかり、制止しようとした巡査部長(32)の腕を噛んだ。更に巡査の手にも噛み付き、それぞれ一週間の怪我をさせたことにより公務執行妨害と傷害罪で追起訴される。

2007/02/02 初公判。

被告は一貫して2人の殺害を否定。

「砂人形をさしただけ」「人間ではなかったので血も出ていなかった」などと発言。

また唾を吐くなど、進行を妨げる行為をしていたので裁判長から注意をうける。

その後も公判は続き

2007/2/27 第6回公判。

被告は、拘置所を出る際に出廷を拒否したことから、車椅子に乗せられて法廷へ。

目を閉じだらけるような姿勢で椅子にすわるので裁判長から度々注意されるが聞く耳をもたず。

また、床にツバを吐く、床に寝転ぶ、トイレを要求する発言を繰り返すなど、再三進行を妨害する為、被告に退廷が命じられた。

2007/3/1 第7回公判。

被告は、前回同様車椅子で出廷。机の上に足を出し「刑務官に蹴られた」と訴えたため、一時休廷となる。該当する刑務官に確認したところ、事実がないことが判明。

その後も「足が痛い」「退廷したい」など発言を繰り返した為、開廷後40分足らずで退廷となった。

また今回は元夫にあてた手紙が証拠となって採用された。内容は「「精神病の人は悪いことしても法律で許すと聞いてる」というものであった。

2007/3/23 第10回公判。

被告人質問で鄭被告が「何もしてない」と繰り返し、午前中で裁判は中止となった。

2007/8/10 第11回公判。

「統合失調症」が原因で、ことの善悪の判断が出来ない心神耗弱状態だったとする鑑定書を証拠として採用される。

2007/9/11 第13回公判。

2度目の被告人質問で、子供を刺したことを認める発言をしたかとおもえば、「耳栓が(被害園児)2人は死んでいないと言っている」と殺意を否認。

大津地裁は検察側の精神鑑定請求を却下した。

2007/9/18 第14回公判。

検察側が死刑を求刑。

鄭被告は「悪いことをしたのは私です。二度とこんなことが起きないように頑張りますから、助けてください」と延べる

2007/10/16 第15回公判。

無期懲役の判決。検察側、弁護側、共に不服として控訴。

2009年2月20日

大阪高裁で二審の判決。一審の無期懲役判決を支持し、検察・被告双方の控訴を棄却。

2009年3月9日

検察・被告とも上告せず、被告の無期懲役の判決が確定。

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民事訴訟

殺害された2人の遺族が幼稚園を運営する長浜市に「安全配慮義務を怠った」と、加害者の女の元夫に対し「精神障害者である妻に対する保護監督義務を怠った」という理由で

総額計約2億円の損害賠償を求め、大津地裁に民事訴訟を起こしたが、事件の予見は不可能という理由で棄却となる。